細木数子を踏み潰す
島倉千代子、ピンハネ事件




 3月下旬、東京・赤坂プリンスホテルで、島倉千代子デビュー50周年記念パーティが開催された。 そこには歌謡界の仲間が多数お祝いに駆けつけたが、そのうちのひとり、宮路オサムが舞台に立ち 「今日は、本名の細木一馬でお祝いの挨拶を ……」 と言った瞬間、島倉を古くから知る業界関係者は一瞬、凍りついたという。

 「彼の本名は “細木数子” と音が似ているでしょ。 島倉の前で、その名前を出すのはタブーなんです」 と、島倉をよく知る業界関係者は言う。

 細木数子といえば、一時はブラウン管から姿を消していたものの、ここに来て復活。 歯に衣着せぬ物言いで、芸能人をバッサバッサと斬り、いまやバラエティ番組に引っ張りだこの占い師だ。

 そんな細木の過去を紹介するエピソードに、島倉に関するものがある。 島倉が借金まみれだった1977年、細木が彼女の後見人となり事務所を設立し、見事な手腕で借金返済に尽力したという美談だ。 これは、細木“信者”にはよく知られた話だろう。 ところが、実のところ島倉サイドは細木によい感情を抱いていない。 「本当に島倉の恩人なら、50周年パーティに呼ばれないわけがない」 と前出の業界関係者は言う。 2人の間に横わたる因縁とは何なのか?

 島倉は70年頃、ステージ上でファンの投げたテープが眼に当たり、大けがをするという事故に見舞われている。

 「一時は失明の危機にまで陥りましたが、担当医だったM氏の必死の治療により無事回復。 これが縁で島倉とM氏は深い仲になるのですが、M氏はその後、さまざま事業で失敗し、島倉も16億円ともいわれる莫大な借金を背負わされてしまうのです。 島倉のもとには、暴力団が取り立てにやってきて、劇場の楽屋で騒がれたり、車のボンネットの上に乗られたりと、嫌がらせを受ける毎日でした」 ( 前出・業界関係者 )

 そんな借金まみれの島倉の前に現れたのが、赤坂などで水商売を立ち上げていた細木だった。 細木数子は、当時数億円の借金を背負っていた歌手の島倉千代子の後見人となる。
 しかし、なぜ細木と島倉は結びついたのか。 それには、暴力団 「二率会」 の4代目会長( 当時相談役 )で小金井一家の幹部だった堀尾昌志という人物が関係している。 細木は堀尾との関係を、「 夫婦以上、親子以上」 だと語っている。 2人の関係を否定したことは一度もない。

 細木によれば、77年に債権者に追われて島倉が泣きついたのが、堀尾の知人だったという。 この知人から相談を受けた堀尾が、自らを担保に1億5000万を作って債権者に返済した。 そして島倉の興行権を手に入れた堀尾と細木は、芸能プロダクション 「ミュージック・オフィス」 を設立し、島倉と二人三脚で借金返済のために芸能活動をスタートさせた。 細木数子は 「光星龍」 という名前で社長に就任する。 島倉は、毎月数百万円ずつ返済することになった。 設立当時は景気もよく、島倉クラスのタレントなら、月に400~500万円は稼げた時代である。

細木は 「光星龍」 の名で作詞も手がけている。   昭和54年5月 「噂」 、「 女の私が得たものは」
昭和55年2月 「春秋の舞唄」 、「 千歳扇の舞」
昭和55年5月 「女がひとり」
昭和55年7月 「綱わたり」
…… ヒットはない。

 「細木は、ある暴力団の組長と昵懇だったんです。 その筋にも顔が利くということで、島倉は細木にマネージメントのすべてを任せました。 島倉は初めて地下鉄移動を経験し、大好きなパチンコも制限して、必死に借金返済に努めました。 ところが、細木に返済を任せていた借金は、いつまでたっても消えずじまい。 島倉は “もしや細木とその筋が示し合わせて、金を吸い取られているのではないか? …… ”と疑念を抱き、細木と別れるんです」 ( 同 )

 嫌気がさした島倉は知人の助けを借り、1981年に 「コロムビア」 ( 現・コロムビア ソングス )に移籍する。 この際、残っていた1億円の借金はコロムビアが肩代わりしたという。 かつての細木の証言によれば、赤坂で自身がサパークラブを経営していたときに、偶然に島倉と出会ったというが、本当に偶然だったのか、それとも細木が島倉を利用しようと意図的にアプローチしたのかは、真偽不明のままだ。

 面白いのは、この独立問題に関する細木数子のコメントである。
 当初は、細木の方から独立を勧めたという話だった。 『週刊平凡』 ( 1980年5月8日号 )の記事では、 「光星龍」 という名前で細木は取材に答えている。
 「5月1日から島倉千代子は 『ミュージック・オフィス』 を離れて独立します」 細木が自ら作った挨拶状にはこう書かれていたという。
 それを見た島倉千代子は、 「私に何の相談もなく、どうして勝手に決めたんですか? 私は独立したくなんかないわ」 と詰め寄ったそうだが、細木は 「だって3年前のあなたの破産事件のとき、将来この問題が解決したら独立すると約束したじゃないの」 と答えたという。

 ここで彼女が演じているのは、 「独立を拒む人気歌手に、心を鬼にして独立を勧める大恩人」 という役である。 だが、2005年3月5日号の 『週刊現代』 では、細木は取材に対し次のように答えている。
 「冗談じゃないわよ。 ( 中略 )借金を返し終わったとたん、お千代( 島倉千代子 )は出て行っちゃった。 それっきり音沙汰もなし。 助けてくれた堀尾のお墓には線香の一本もなし」 独立を勧めたのはお前じゃなかったのか? 文句を言ってる暇があるなら、自らが一方的に語った “美談” を思い出すべきだろう。 しかもこの話では 「借金を返し終わった」 と言っているが、細木のもとで働いていた間は借金を完済することはできなかったのだ。

 島倉千代子が、当初は 「大恩人」 とまで言い慕っていた細木について、一切語らなくなった理由もこれでわかるだろう。
 当初、島倉が抱えていた負債は 「4億3000万円」 ( ※注1 )で、それを債権者側に3分の1の 「1億5000万」 で納得させた、というのが初めの話だった。 だがこの後、借金の額がころころ変わっていくのである。
( ※注1 )当初は2億4000万といわれたが、後に4億3000万円と判明。

 まず 『週刊平凡』 ( 1980年5月8日号 )の記事では、細木は取材に対し 「16億円」 あった借金を、 「6億円」 にしてやったのだという話だった。 しかし、1982年に出した初の占い本 『六星占術による運命の読み方』 ( ごま書房 )では、 「4億数千万」 の負債だと書き、1988年に出版された『女の履歴書』 ( 廣済堂 )では、後に判明した金額は 「13億円」 で、それを3分の1の4億3000万円で債権者に納得させたという話に替わっていた。 さらに 『週刊現代』 ( 2005年3月5日号 )の取材に対しては、 「12億円」 だった負債を 「2億4000万」 で債権者に納得させたと言っている。
 どれも細木本人が語った金額だ。 なのに、この金額のバラつきは何なのだ? これでは島倉が不審を抱くのも無理はないだろう。

 一方、島倉という “糧” を失った細木だったが、81年に占い師としての最初の著作 『六星占術による運命の読み方』 が70万部の大ヒットとなり、一躍有名人となる。 ただ、その後もことあるごとに “島倉千代子を再生させた手腕” を喧伝する細木に対して、島倉は憤っていたようだ。

 「売れっ子になった細木には、常に芳しくない評判がついて回りました。 島倉さんの件のほかに、83年に、当時85歳だった陽明学者で歴代総理の指南役としても高名だった安岡正篤氏と結婚すると、1年後に死別。 遺産をめぐって安岡家と、泥沼の訴訟を繰り広げました。 さらに墓石屋と組んで霊感商法を行っていると、被害者から告訴されもしました」 ( 女性週刊誌記者 )

 これらのスキャンダルを受けて、細木は90年代に入るとテレビから完全に姿を消す。 当時を振り返って、 「出る杭は打たれるのよ」 ( 「女性セブン」 04年3月25日号 )と語る細木だが、なぜ今になって彼女は復活してきたのか?

 「今でもバックに実力者がついているとかいろんな噂がありますが、結局は 『あの人は今』 的なかたちでバラエティに引っ張り出したところ、視聴者の受けが良かったんです。 若い視聴者に細木は目新しいキャラに映るし、年輩視聴者は、彼女のスキャンダルなんて忘れてますからね。 オウム事件以降、オカルトネタが扱いづらいなかで、占いならセーフという勝手な現場の判断で重宝されているのでしょう」 ( テレビ制作会社社員 )

 だが、今年に入って、細木の実弟がマルチまがい商法を行っているとのスキャンダルが噴出。 各週刊誌も彼女の裏人脈を中心にスキャンダルを狙っているとあって、再度 「出る杭」 が打たる可能性はある。 細木自身は、自らの運命をどう占っているのか?